情然研究所 ――哲学・神学・科学を横断して自由に真理を追究する
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宇宙の本体・始原

 

 

●唯物論でも唯心論でもない一元論

存在の根源とは何か。
科学は因果律に基づいてその原因を過去に探し求めながら、ついに「原初のエネルギーのゆらぎ」へと辿りついた。いま宇宙に見られる物質存在の原因は、すべてその「原初の卵」の中にあったという前提で理論が構築されている。

では意識や意味、クオリアはどうだろう。
情然の哲学は、あらゆるものの根源は同じであるとする一元論を主張する。その一元論の立場で考えるならば、意識やクオリア等もやはり究極的には「原初の卵」の中にあったということになる。
そうした精神的なものは物質とは別に存在していたという物心二元論を情然の哲学は明確に否定する。

では、その一なる根源とは何か。意識と物質と、いったいどちらが先か。
唯物論者がいうように物質(脳)が精神を生じさせたのか。あるいは意識的存在(神)が物質(宇宙)を創造したのか。

初めに意識的存在(神)があったということの真偽について、哲学では肯定も否定もできない(証明できない)という結論が出ている。
仮にそれを支持する立場に立ったとしても、それは結局、宗教的な文脈でしか語ることはできず、科学や哲学などの諸学問と共有できるものにはならない。

一方、唯物論は科学の発展に大きく貢献はしたが、しかし皮肉なことにその科学によって否定されつつある。
なぜならば「客観的に存在する物」という物質の定義がどうも怪しくなってきているからだ。
量子論においては、物質の状態は観測者との関係性において決定される。
極端なことをいえば、存在するかしないかさえ観測されたかどうかによって決定されるのだ。
もしこの瞬間、月が誰にも観測されていなければ、それは存在しないという可能性を完全に消し去ることはできない、ということだ。

唯物論でも、唯心論でもない一元論とは、何か。
その問いに答えるために、「原初のエネルギーのゆらぎ」ということをもう少し掘り下げて考えてみよう。
そこは全宇宙が原子一個よりはるかに小さな領域に押し込められた世界。宇宙開闢から約5.4×10-44 秒までの「プランク時代」か、あるいはそれ以前のこと。
原子はおろか、素粒子も光も、いわゆる古典的な意味での物質はまだ何も存在できない時代のことだ。「四つの力」もまだ分離していない。そのような状況において、いったい「何」がゆらいでいたのか。

「エネルギーのゆらぎ」といっても、ゆらぎそのものがエネルギーであって、エネルギーがゆらいでいたというのと同義ではない。
まだベクトル(方向性のある力)もなく、それを発現する物質もない段階でのエネルギーは、ポテンシャルとしてのスカラー場のエネルギーである。
普通の言葉で表現をすれば、それは「可能性のゆらぎ」である。あるいは「場そのものがゆらいでいた」といってもいいだろう。「ゆらぎそのものが空間(存在)の本質」であるということもできる。

場とゆらぎは、ようするに「広がり」と「振動」であり、同じことを別の側面から表現しているに過ぎない。
振動するためには点ではなく広がりが必要であり、広がりがあるということは振動があるということだ。
すべて存在するものは、たとえ極小の素粒子であれ何らかの広がりと関係性をもっている。

また、すべて存在するものは絶えず振動している。完全に止まっているものは存在できない。
たとえば「止まっている光」というのは存在しない。光は常に光速で動いていなければならない。光子があって、それが光速で動くというより、むしろ光速で動くから光として認識されるというほうが実態に近い。光速で動くこと自体が光の本質なのだ。

まず「何か」があって、それがゆらぐというより、ゆらいでいるから存在する。
これは高度な数学と実験装置を駆使して現代物理学が解明した存在の在り方である。
現代科学による宇宙創世期には「初めにゆらぎがあった」と書き記されることになるだろう。

存在とはゆらぎそのものであり、それが関係性の中において、ある時は物質として観測され、またある時は意識作用として感覚される。
情然の哲学では、物質も、生命も、精神も、すべて原初のゆらぎの中から生じたと考える。

原初のゆらぎとは、物質や精神として分かれる以前の「可能性のポテンシャル」であり、存在そのもの――「あってあるもの」である。
情然の哲学ではその本体を「情然」あるいは「情然の場」と定義する。

詳しくは『情然の哲学』をご一読ください。