情然研究所 ――哲学・神学・科学を横断して自由に真理を追究する
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個性の意味・人生の目的

 

 

●宇宙で唯一の個性

人間は個人の特質として、自分が関与できない他律的な三つの要素を受けて生まれてくる。
その一つは、遺伝子を通して引き継がれる身体的、外見的特徴だ。
二つめは天稟、つまり生まれつきの才能。この二つは主に親(そしてその背後に連なる祖先)から受け継ぐものである。
そして三つめは、人間として生まれるという普遍的な位置である。
この三つは、自分の意志や力ではどうにもならない「宿命」であると考えられる。

他にも他律的要素としては、国籍や経済状況、文化的背景などいろいろあるが、それは社会的状況であって、その人個人の特質ではない。
それに対して心は自律的な存在である。
もちろん親の心が分有された要素も全くないわけではないだろう。
しかし身体的特徴や機能は遺伝子によって受精時にほぼ決まってしまうが、心はむしろほぼ真っ白な状態――心というにはまだあまりに幼く漠然とした情感の広がりのような状態――で生まれてくる。

心がはっきりとした形を持ち始めるのは理性がある程度成長してからのこと。
情感と理性が相互にやりとりする中で徐々に心の輪郭が形を現し始める。
心の領域が明確になるにつれて、その領域の外にある「他者」の存在も鮮やかに浮かび上がり、その「汝と我」の関係性の中で、心はやがて自我を自覚するようになる。(詳細は「情然の哲学・第3章 存在の構造」参照)

自我を確立して成長した心は、完全に主体的・能動的・自律的な存在である。
外部からの刺激に影響はされるが、それをどのように受け止めるかは主体的な選択に任されている。
人間は精神的には完全に自由であり、他から支配されることはない。そういった意味でその人の個性が最も端的に表れるのは、心においてであるということになる。
仮に同じ遺伝情報をもつ一卵性双生児であっても、心はそれぞれ独立した存在であり当然ながら全く異なる個性をもっている。顔形がそっくりでも、心の現れである表情は大きく違ってくる。

逆に、遺伝子的には全くの他人であっても、仲の良い夫婦は自然に表情が似てくるともいわれる。
遺伝情報は、そのすべてが発現しているわけではない。どの部分が発現するかは、環境にも左右されるが、心の選択によるものも大きいと考えられる。 心の差異こそ個性の本質であり、それが身体的な特徴や立ち居振る舞いとして現れるようになるのだ。

では、そもそも個性とは何か。個性は何のためにあるのか。
じつは個性にこそ、人間が生まれ存在する本質的な意味があり、価値があるのだ。違いがあるがゆえに、その出会いに刺激があり愛が生まれる。
もし個性が全く同じであれば、そもそも存在の意味がない。

逆に考えれば、生まれてきたということは、その人にしかない宇宙で唯一の個性があるということにほかならない。
「私」や「あなた」の命の誕生は、全宇宙でたった一回限りの歴史的大事件である。
人類が何千兆人になろうと「あなた」と全く同じ個性の人は、過去にも未来にも決して存在しない。
人間の心は、全人類の無限の差異の中に核をつくり唯一の位置を占める。 ゆえに唯一の個性も無限に生じることになる。

愛は「我(主体)・汝(客体)」の間に流れる情的力であり、そのためにはそれぞれ独立した「個」という極性をもたなければならない。
二者が全く同じであれば愛は流れられない。いや、そもそも全く同じであればそれは一者であり二者になれない。
愛を中心にして見れば、愛は自らを実現するために必ず個を生み出すのであり、愛が無限に展開するためには、個も無限の差異の中に生み出されるということになる。

一般的に、個性とは性格や特徴的な能力のように思われているが、本質的には「愛の表現形態の差異・特徴」であるということができる。

詳しくは『情然の哲学』をご一読ください。