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愛の引力と斥力

 

 

●愛は理想に向かう力

愛は必ず何らかの対象を必要とする。対象に向かう情の流れ、情的な力が愛であって、その向かうべき対象がなければ愛は発現しない。
もちろん、その対象は人間であるとは限らない。ペットの場合もあれば、愛車や愛用の時計というようにモノに向かう愛もある。
あるいは、国を愛する、学問を愛する、芸術を愛する、というように対象が抽象的な概念のようなものの場合もある。

いずれにしても、愛にはそれが向かう方向つまり「相手」が必要であるということに変わりはない。
自己愛というのもあるが、それは自分を対象化して愛するということであって、決して「相手」がいないわけではない。
対象をもたない愛はポテンシャルとしての愛――つまり何か(誰か)を愛する可能性――のことであり、常識的にもそれは愛ではない。

(中略)

愛は心をその対象に強く引き付ける力となる。ゆえに愛とは引力のみであるかのように捉えられる傾向があるが、じつはそうではない。
「愛によって一つになる」というようなことがよくいわれるけれど、実際に一つになってしまえば関係性が失われ、愛することができなくなる。

愛するということはきわめて主体的な行為であり、その愛が向かう対象とは別の存在・他者でなければならない。
愛すれば自然に相手に近づきたいという思いが強くなるが、同時に、自分は愛の主体としての位置を保つために一定の距離感も必要になってくる。

そういった意味では、愛にはその対象から遠ざかる力・斥力的な要素もあると考えられる。
引力によってつながっていながら、斥力によって距離を保ちつつ個としての位置は保持される――まさに愛とは関係性を築き維持する力そのものである。

愛とは、決して二者を同じにすることではない。また、同じだから愛し合うのでもない。
むしろ違いや差異があるからこそ愛が成立するのである。
愛の場の中では、引力と斥力が調和的に作用し球形運動を展開するようになる。

(中略)

引力と斥力のほか、愛にはもう一つ重要な要素がある。それは、より高いステージに向かおうとする理想にほかならない。
どんなに深く愛し合っても、ただ二者が向き合うだけであれば発展性がなく、愛も次第に収縮していってしまうだろう。

たとえば恋人同士であれば、お互いにより高め合う中でそれぞれが人格的に成長し、より深い愛を築こうとするようになる。
一対の愛し合う男女はいずれ夫婦となることを目指し、結婚によって家族の核を構成する。
やがてそこに新たな生命が生まれ父母となり、そして祖父母となっていく。 二人から始まる愛は、男女の愛から、親の愛、そして人類愛へと広がり発展していく。

親子の愛でも、男女の愛でも、兄弟姉妹の愛でも、友愛であっても、愛はそれ自体の性質として常に理想を目指すようになっている。
もし、ただ向き合うだけで理想が失われた関係であれば、もはや愛とはいえない。疑ってかかった方がいいだろう。愛は理想を共有し合うことで成立する。

愛し合っているということは、即ち共に理想に向かっているということでもあり、それによって愛が維持され、発展するのである。
愛は相対関係の中を行き交う方向性をもった情の流れでありつつ、その愛によって結ばれた関係それ自体も同じように対象――つまり理想に向かうベクトルをもつようになる。
そうして愛は、さまざまなステージにおいて常に理想に向かい、無限に展開していくことになる。

理想とは「いまここでないどこか」にある世界や状況を指し示すビジョンのようなものではあるが、理想そのものは漠然とではあっても「いまここにある心の中」に描かれている。
理想に向かうことは、それ自体すでに理想に包まれて理想の中にいるようなものかもしれない。
理想に生きる人は、現状がつらくても勇気や希望を持つことができるのは、それゆえである。

詳しくは『情然の哲学』をご一読ください。