●宇宙を満たす「意味」のつながりとクオリア
クオリア(qualia)とは、一般に質感とか感覚質と訳される。リンゴの「赤くておいしそうな感じ」乳児の肌の「柔らかそうな感じ」「犬や猫の毛のふわふわした感じ」といった、外部からの刺激に対して誰もが感じる「あの感覚」のことだ。
たとえば「花の美しさ(のクオリア)」は、花そのものの中にあるのではなく、それを愛でる人間の心の中で――脳科学的には脳内のニューロンの発火によって――引き起こされる心的現象であると考えられている。
たしかに花に見とれる犬や猫がいないように、彼らにとって花は美の対象ではないだろう。花に吸い寄せられるミツバチや蝶もまた、美しさゆえに近づくのではない。
だとすれば美しさや可愛らしさなどのクオリアとは、果たして人間の観念の中だけにある幻想なのだろうか。
私はそうは思わない。私の心の中にクオリアの観念があるというよりも、むしろ私自身のほうが宇宙全体に広がるクオリアに包まれているということを感じる。
まず何かがあって、誰かがそれを感じることでそこにクオリアが立ち現れるというより、もともとクオリアそのものが存在に先立ってあるのだ。
究極的にはビッグバン以前、まだ人も物質も存在し得ない時代から「原初のクオリア」のようなものがゆらいでいたとさえ私は考えている。
存在はすべてクオリアを伴って現れる。クオリアこそ存在そのものであるということもできる。そういった意味では、クオリアは重力とも密接に関係している。重力の本質とは「存在の力」であり「クオリアの力」でもある。
存在とはクオリアの海の中の渦のようなものであり、私という存在も畢竟すべての存在と共に大いなるクオリアの流れの一つとして宇宙に参加しているというのが私の実感だ。
詳しくは『情然の哲学』をご一読ください。