情然研究所 ――哲学・神学・科学を横断して自由に真理を追究する
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哲学・宗教・科学の役割

 

 

●哲学

哲学は、理性を最大限に働かせて論理的に真理に至ろうとする。
しかしそこには論理を展開するツールとしての言語の不完全性、あいまいさ、言語によって言語を定義せざるを得ないというジレンマがつきまとう。

定義する言葉と定義される言葉の相互干渉や、定義する言葉をさらに定義する必要もあったりで、それが無限に連鎖してしまうという構造的な問題が避けられない。
論理を精密にするために単語や概念の意味を絞り込もうとすればするほど複雑かつ難解になり、かえってフォーカスがボケてしまうということもなきにしも非ずだ。

近代になって、「力への意志」を重視したニーチェや、「情状性(気分)」を存在の根源においたハイデガーなど、古代ギリシャ以来続いてきた理性偏重主義的傾向に疑問を投げかける流れも見られる。
哲学に代表される「西洋近代的なるもの」への否定として「反哲学」の立場を取る「哲学者」も少なくない。
たしかに理性偏重は正されるべきではあるが、それによって哲学そのものの価値や役割が失われてしまうのは、憂慮すべきことだと思う。

そうした背景もあって、哲学全体が混乱の中で価値相対主義に浸食されつつあるというのが現状だ。それはとくにポストモダンといわれる現代思潮のなかに如実に見られる。
そこでは世界全体を包含するような真理などは幻想であるとして、キリスト教や共産主義のような「大きな物語」の解体(脱構築)が提唱されてきた。

たしかに近代以降、世界宗教が掲げる理想は挫折したかのように見えるし、そのアンチテーゼとして出てきた共産主義もまた、より悲惨な現実を歴史に刻んできた。
「大きな物語」に幕を降ろしたくなる気持ちも分からないではない。

実際ポストモダン思想は、独善的なドグマや強固な先入観からの解放をもたらし、多様性と差異に対する寛容度を高めてくれた。
それは、個性の尊重や民族文化の保護など、現代社会のあり方にも大きく貢献している。
しかしその反面、「家族という物語」までをも解体しようとする動きにつながる危険性も孕んでいる。これは真理探究を諦めてしまうことと併せて断じて容認できることではないと私は考える。

だいたい真理を追究してきたはずの哲学が、まだそれが見つかっていないからといって、そんなものはないと決めつけてしまうのは、あまりに拙速過ぎる。 それは哲学が「哲学すること」を放棄してしまっているようなものだ。まさに哲学の自殺ではないか。 あえていうならば「真理などない」という決めつけ自体もポストモダン的に否定されるべきだし、むしろ「既存の物語を鵜呑みにせずに、自ら真摯に探し求めなければならない」ということこそ、より本来的なポストモダン的方法論であるはずだ。 私はいま、哲学が原点に戻ることの重要性を強く主張したい。単に過去の思想を学び教養として身につけるだけでは決して哲学者とはいえないだろう。 本物の哲学者とは、知識の量ではなく実際に「哲学している人」のことであり、「人生とは何か」「真理とは何か」ということを寝ても覚めても考え求め続けている人だ。

哲学の祖といわれるソクラテスは、まさしくそのような人物であったに違いない。
「哲学すること」よりも、その知識を披露し収入を得ることを優先しがちなソフィストたちに対して、彼は「あなたがたは自分とは何かが分からないということさえ分かっていない」と論争を挑んでいる。

現代は古代ギリシャの頃以上に本物の哲学が必要とされている時代ではないだろうか。
いま地球のあちらこちらで、真剣に真理を求めているであろう「現代のソクラテス」たちが、共に真理について語り合う相手を探している。もちろん私もその一人でありたいと思う。

「象牙の塔」の閉ざされた部屋の中ではなく、真理を求めるすべての人の心の中で、またそうした人たち同士の自由な交流の中で、いま新しい哲学が息づいているのを感じる。

●宗教

哲学とは逆に、既に真理を確信しているともいえるのが宗教の立場だろう。 宗教的なアプローチにおいては、論理や理性よりも啓示や直観、悟りが重視される。
極端なことをいえば、仮に論理的な整合性がなくても、あるいは矛盾や破綻があっても、さらには科学的な事実や現実との乖離があったとしても、教祖や経典が指し示すことが真理とされる。

言語を越えた直観や悟りの世界を重視する宗教的なアプローチは、真理に至るためのきわめて有効な方法であると私は考えている。
また、愛や感謝など人間にとって重要な価値を率直に表明できること、人間を苦しみから解放するための救済論があるということなどは、哲学や科学には見られない宗教の大切な存在意義であると思う。

しかし基本的には、過去において提示された教義が真理のすべてであるという守旧的な立場に立ちやすい。
教義を信じ伝統を守ることはもちろん大切なことではあるが、新たな啓示や解釈に対しては分派あるいは異端として一方的に断罪、排除してしまうという弊害もある。
新約聖書によれば、ユダヤ教の律法を「更新」しようとしたイエスも「悪魔の頭」として処刑されている。

宗教者にとっては、自ら既に真理の旗を掲げているのだから、あとはそれをいかに伝え教えるかということが中心になり、相手の話を聞く必要性を感じない。
それゆえ各宗教間においては、対話そのものの成立が難しくなっている。 なんとか話し合いの場についたとしても、お互いの主張をぶつけ合うだけになってしまいがちだ。

実際、歴史を振り返ると教義論争が発端となり戦争にまで暴走してしまうことも多かった。
愛や感謝、平和を掲げ、救いをもたらすはずの宗教それ自体が、争いや不幸の原因となってしまうという、あまりにも皮肉な状況がいまもなお続いている。

宗教が独善的な立場を越えて他の宗教宗派あるいは科学や哲学との対話を進めるためには、自分たちが把握しているのは「真理全体」ではなく、一部である(かもしれない)という謙虚な姿勢が必要になってくるのではないだろうか。
哲学や科学が探し出した論理的・実証的な真理との調和は、宗教的な真理を、むしろより一層輝かせることになると思う。

●科学

哲学や宗教に比べると、科学の真理に対するスタンスにはとても興味深いものがあるように思える。
それは、哲学以上に論理の完全性が要求されるはずなのに、「宇宙を貫く真理は必ずある」というむしろ宗教的ともいえるような直観が前提になっているということだ。

現代科学を大きく飛躍させた相対性理論と量子論は、お互いに相性が悪いとされているが、科学者のほとんどは、その二つを統合することを可能にするより本質的な理論があるに違いないという信念(信仰?)のもとに日々研究を重ねている。

宇宙を構成する力は「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」の四つに分類されているが、既に「電磁気力」と「弱い力」は元は同じ力であったということが証明(電弱統一理論)されている。
それに「強い力」も統合する「大統一理論」から、さらには重力も入れてすべての力を統一的に記述できる「万物の理論」までもが視野に入ってきている。まだ完成には至っていないが、その「真理」があるという確信と、いずれ必ずそこに到達できるという夢を科学者たちは共有している。

また、たとえ考え方や立場、学派が違っても、実験結果や観測された事実、証明された理論であれば謙虚に受け入れるということも科学の長所だろう。 科学的な知識や技術は世代を越えて積み上げていくことができるということも特筆すべきことかもしれない。
実際、冒頭に述べたように、科学の進歩はさまざまな技術革新をもたらし、それによって私たちの生活を一変させるような壮大な物質文明を築き上げた。

しかしその反面、環境破壊や経済格差などの問題も大きくなった。
また科学技術は武器をより高度化させ破壊の規模を拡大している。
より深刻な問題は、科学的合理性を追究するあまり、最も「非合理的」ともいえる「愛」や「心」「生命」というような人間にとってより大切な価値がどうしても置き去りにされてしまうということだ。

しかし、いまや科学もそうしたテーマを避けてばかりはいられない状況になってきている。
ややロマンチックな表現をするならば、宇宙物理学者たちが宇宙の起源に遡りつつ出合ったもの、素粒子物理学者たちが物質の究極の姿の先に見たものは、あたかも「心」のようなエネルギーの振動であり、まるで「愛」を交換しあっているかのような関係性の網の目だった――。

詳しくは『情然の哲学』をご一読ください。